名古屋のデザイン住宅・分譲住宅 諸戸の家

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MOROTOの由来

閨閥と歴史のある諸戸の家

明治維新の成功者で日本一、ニの山林王とも言われた"諸戸清六(1846~1906)"の流れをくむ会社が、自社の山林を活かした木造注文住宅をはじめるにあたり、松本義彦(前・当社取締役会長)の協力を得て、育て上げたブランドである。のちに「諸戸の家」のブランドは、その住宅事業とともに、諸戸の家株式会社に引き継がれ、通算30余年の歴史と現在までの施工引渡し棟数が4,600棟以上を誇る。当社は、その諸戸家からブランド継承した正統会社です。

諸戸清六
諸戸清六(山林王)

諸戸清六

諸戸清六は1846年、三重県桑名郡木曾崎の加路戸新田の諸戸家に長男として生まれた。幼名を民治郎という。諸戸家はこの地で代々庄屋を営んでいたが、清六の父・清九郎の時に商売を失敗し、身代を潰してしまった。1847年、一家は住み慣れた地を離れ、米・塩・肥料の採取業をしながら各地を転々とし、やがて桑名の船馬町に落ち着くと船宿を営んだ。18歳で家督を継いだ清六だったが、この時受け継いだものといえば布団・衣類・道具と約二十石積の船一隻、そして一千両を越える莫大な借金であったといわれている。しかし清六は桑名という地の利をいかし、米の買い付けを始めた。そして昼夜を問わぬ働きで、わずか2年すべての借金を返済したのだった。財を成した後も、清六は質素な生活を貫き、決して華美に振る舞うことをしなかったが、公共事業への投資には力を惜しまなかった。もともと桑名一帯の井戸水は混和物が多く、飲料水に適さなかったことから、清六は水道施設を独力で設置し(諸戸水道)、一般に開放した。また桑名町内三十箇所以上に消火栓を設けた。このような設備は当時大都市を除いて稀なものであり、全国で七番目であったといわれる。なお、桑名の教科書にも諸戸清六の偉業が載っており、小学生は学校で学んでいる。

六華苑

六華苑

六華苑(旧諸戸清六邸)は、二代目諸戸清六氏の邸宅として、1911年(明治44年)に着工され、1913年(大正2年)に完成しました、六華苑は、鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる4層の塔屋をもつ木造2階建天然スレート茸の洋館と、和風建築及び、その前庭の池泉回遊式庭園などがあります。和洋の様式が調和した六華苑の建築物は、明治・大正期を代表する貴重な文化遺産であり、国の重要文化財となっております。諸戸の家株式会社は六華苑の西隣に位置し、事業展開しています。

六華苑 洋館
木造2階建。ヴィクトリア朝住宅の様式を基調。4階建の塔屋や、多角形に張り出した1階のベランダと2階のサンルームが特徴。内部のデザインは1階は洋風、2階は洋間に和風の襖が設けられるなど和洋折衷である。
六華苑 和館
六華苑 和館
木造平屋作り。和館が壁を接して洋館と直に接続されており、普段の生活は和館が中心。周囲を板廊下が配置され、和館北側の内庭に面する板廊下と各部屋の間には主人と家族、客人が使うための畳廊下が設けられている。
六華苑 庭園
六華苑 庭園
建物の南側に位置する、芝生の広場と池を中心とした日本庭園。渓流や滝、枯れ流れなどが巧みに配置されている。当初設けられていた茶室や待合に合わせて露地風の庭園だったが、昭和13年の改修で茶室は撤去され、離れ屋が作られた。
六華苑 内装
六華苑 内装
和と洋が融合したような建物で、見る人はまず、その光景に驚く。しかし不自然さや違和感はなく、かえって自然に見えてしまう。またとても奥行きがあり、一番奥が格調高い客座敷・一の間と次の間、次いで手前がニの間と次の間が続く。
ジョサイア・コンドル
ジョサイア・コンドル
ロンドン出身の建築家。1877年(明治10年)日本政府の招聘に応じて来日。政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として、創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。

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