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小柳才治のワインコラム

【小柳先生プロフィール】
1974年~
ドイツガイゼンハイムワイン大学聴講ジャーマンワインアカデミー研修 酒類専門店チェーン店「ESPOA創設スタッフ」となる。ドイツ、プファルツにてワインの栽培醸造を学ぶ。
1986年
ジャーマンワインアカデミー講師(本部マインツ) 酒販専門学院院長就任 日本ストアーサービス㈱代表取締役社長就任
2006年
㈱フロイデ設立 日本ソムリエスクール講師 日本ドイツワイン協会連合会理事
2010年
日本ドイツワイン協会連合会三代目会長就任 ドイツワインケナークラブ会長就任
2011年
「春のドイツワインフェスタ・横浜」開催 青森県むつ市にて東北大震災コンサート”クラシック音楽とワインの夕べ” 名古屋教室”フランスドイツワインの旅”実施
2012年
4月28日を「ドイツワインの日」と制定 グランドプリンス高輪にて制定式と祝賀会開催・ドイツ大使館後援
2016年
日本ドイツワイン協会連合会会長引退し名誉会長に就任
vol.4

◇ドイツでワイン造りを学ぶ
フランクフルト空港からアウトバーンを車で南西へ約2時間、フランス国境に近いプファルツ地域の小さな村で私は本格的にワイン造りを学びました。
栽培から醸造そして販売まで年間を通じて色々と教えてもらいました。
「ジークリスト醸造所」の若いオーナー夫妻トーマス&ギゼラには本当にお世話になりました。
衣食住と週末の過ごし方まですべてこの家族と共に生活しました。
トーマス夫妻には女の子が二人とご両親と母方の叔父さんと私を入れたら総勢8名、叔父さんは近所から通いであとは全員大きな家で一緒に住んでいました。
この醸造所で私はワイン造りだけではなく、ドイツ人の生活様式も含め、すべてを学ぶ事が出来たのです。今から40年近く前の事です。
ワイン造りを学び、出会いもあり、帰国して、その後、日本で「酒販専門学院」というお酒の販売を学ぶ専門学校を設立して、初代の校長に就任する事になります。

◇酒販専門学院のこと
大阪は商人の街として長い歴史がありますが、大阪船場をルーツとする大阪商人と滋賀県琵琶湖畔をルーツとする近江商人が知られています。
そして私はなんとドイツで、その商人達のドイツ視察見学旅行の通訳案内人として、出会うことになるのです。縁というものは不思議なものです。
そして出会いこそがその人の人生を大きく変えてゆくものであると思います。
ドイツで音楽とワインを学んだ私が、その商人達の目に留まり、熱心な説得で私は大阪で仕事をする事になります。
当時の日本はセブンイレブンなどコンビニがまだ誕生していない時代で、大型スーパーマーケットが急激に台頭し、従来までの商店街の小売業が大打撃を受け始めた頃の時代です。
その時代にお酒屋さんのご子弟が学ぶ「酒類販売の専門学校」を設立することが私の日本での事始めでした。
「酒販専門学院」はそうした背景で誕生するのです。

◇卒業生、内田修君のこと
酒販専門学院は基本的に全寮制で、講師と生徒は一般の専門学校に比べ非常に人間関係は濃密でした。
ここで近江商人のABCについて語るべくもありませんが天秤棒をかついて全国各地を戸口から戸口へ歩き、お客様とのコミュニケーションを通し信用を築き上げ、結果販売につなげてゆく、という小売業の原点をそこで学びます。
学校で学科を学んだ後は、かなりの時間を割いて、フィールドに出ます。いわゆる営業外交を体験するのです。
机上で学んだ商品知識なんてほとんど現場ではだれも聞いてくれない事を体験します。
多くの学生たちは挫折を体験します。 懐かしいですね、その頃が・・・。
内田修君という広島県出身の若者との出会いはその専門学校の時代でした。 いわば私の教え子です。
その彼が縁あって、フランスへ留学し、ボルドー大学の醸造学部でワインを学び、フランス人女性と結婚、今ではフランスボルドーワインのメッカ、メドック地区ポーヤック村でワイン造りを始めています。

vol.3

◇わが師「歌手ヴォルフガング・アンハイザー」の急逝!
1970年代のケルンオペラ劇場の大スターWolfgang Anheiserは素晴らしいバリトン歌手でした。
私が大学二年生の頃、NHKの音楽番組にアルバイト出演した時に、私は彼の美声をスタジオで聞いてすっかり虜になりました。「世の中にこんな美声を出す歌手がいるのか!」と。
そして、大胆にも私はケルンの大スターを追いかけるようにドイツへ旅立ちます。若い行動力とはすごいものですね。何も考えていなかったと申しますか。
留学後、縁あってAnheiser先生の弟子入り入門が叶い、レッスンを受けるようになるのですが、ここまでは順調でしたが、先生のレッスンを受け始めて一年もしないうちに先生は劇場の舞台で突然の事故で急逝されてしまうのです。
先生が居なくなった私は本当に目標を失ってしまいました。

◇トーマス・ジークリストとの出会い
アンハイザー先生の急逝後、友人のヴォルフガングの助けで、新たな先生に師事して音楽活動は続けていましたが、叔父のアドバイスもあり、ワインの勉強にもかなり興味を持ち始めていました。
友人は南ドイツ新聞という地方紙に「日本人青年、住み込みワイナリー研修求む!」の小さな記事を僕のために掲載してくれました。
1981年夏の終わりだったと思います。友人からの連絡でその小さな記事に思いもよらぬほど電話が沢山入り、友人と私の二人でワイナリーの面接がてら現地へ車で出向いたのでした。
そして、友人ヴォルフガングがこのワイナリーで研修をすべきであるという結論を出したのが、南西ドイツ・プファルツ地方のトーマス・ジークリスト醸造所でした。
今となれば、トーマス・ジークリストといえば赤ワイン造りのスペシャリストとしてドイツを代表する著名人になっていますが、私にとってはこのトーマス・ジークリストとの出会いがなければおそらくワイン業界に身を置かなかったと思います。
彼からどれほどのワインに関する様々な事を学んだか彼との出会い無しに現在の私は到底考えられません。
そして、あれから30数年経ってから、諸戸の家の佐倉社長さんを彼のワイナリーにお連れするとは当時想像すらしておりませんでした。

vol.2

◇ケルンオペラ劇場
私はケルンのオペラ劇場で合唱団に身を置きながら研究生という立場で時には舞台に立つこともありましたが、通行人Aとか名前ももらえないような端役です。
出演の出番も少なく正直ドイツ語にも苦労して、収入も少なく厳しい毎日が続いていました。
今思えば青春時代の懐かしい思い出ではありますが、日本食、日本語、家族から遠く離れた23歳の青年にとっては実に心細い日々が続き、自分の人生を果たして「歌で生きる事ができるかどうか」真剣に悩んだケルン時代でした。

◇劇場の居酒屋ヴィルトさん夫妻との出会い
ケルン時代の唯一の楽しい思い出と言えば、オペラ劇場内にあるワイン居酒屋ヴィルト夫妻との出会いでした。
オペラ公演はシーズン中なら普通毎晩のように開催されますが、途中必ず長い幕間の休憩時間があります。
その時に客席の大半はバーカウンターや立ち席の居酒屋でワインを飲むのです。
「シュタムティッシュ」と呼ばれる常連客専用のカウンターでは必ずと言ってよい程Sekt(ゼクト)と呼ばれるドイツのスパークリングワインを飲みます。(ビールを飲む客は大したお客ではないと後でわかる)
私はその居酒屋さんに毎晩通い持ち前の人懐っこさと調子の良さで急激に親しくなるのです。
ヴィルトさん夫妻と親しくなった頃、市内の割高の単身アパートから郊外のヴィルトさん家族の安い屋根裏部屋へ引っ越しをしました。
そして、気が付いてみたら、昼間歌のレッスンを受けながら夜は時々舞台にあがり、幕間はヴィルトさんの居酒屋でアルバイトをする日々でした。
この家族には本当にお世話になり、この頃から僕のドイツ語もワインに対する知識もメキメキ上達してくるのです。

◇ベートーベンの末裔との出会い
大作曲家ルードヴィッヒ・ファン・ベートーベンはケルンの隣町ボンで誕生しました。
私も何度かボンの生家へ足を運びました。
彼が実際に弾いたピアノやチェンバロが現存していて音楽を志した人間にとって初めてみた時は、心が震えた事を記憶しています。
劇場のヴィルトさんはモーゼル地方のワインを数種販売していました。
夏休みに夫妻とモーゼル地方へワインの買い出しのため一緒に同乗、上流モーゼル地方ケーヴェリッヒという小さな村へ案内してくれました。
なんと、その村にベートーベン通りという道があり、ベートーベンの母マリアの生まれた生家がありました。
そして、その末裔が当時からワインを造り続けている事を初めて知る事になるのです。
後で私はこのベートーベンの末裔家族と知り合うことになるとは、その時はまったく想像していませんでした。

vol.1

こんにちは。小柳です。
諸戸の家株式会社の佐倉社長とワインの旅をご一緒した事がご縁で、その後、まさか私がこのようなコラムを担当させて頂くことになるとは考えてもおりませんでした。
最初の旅は2012年の秋でした。世界のワインの頂点とも言える「ボルドー地方」と私のいわばワインの原点ともいえる「ドイツ・プファルツ地方」の旅でした。この旅をご一緒してから、ほぼ毎年のように佐倉社長と旅をしております。
ワインというテーマで始まったご縁ですが、諸戸の家のテーマは勿論本職である建築です。私は長年欧州を中心にワインの産地を巡っていますが、ここ数年は佐倉社長のお蔭で建築という切り口でも旅をすることになり、お互いの専門分野を語り合いながら本当に充実した時を共有し、年齢を超えて何か友情のようなものが芽生えてきております。

今回は初回ですから、まず初めに私のプロフィールというか、私が欧州に興味を持った頃のことから綴ってみたいと思います。

◇19歳の時にシベリア鉄道で欧州を旅する!
1969年私が東京の国立(くにたち)音楽大学声楽科一年生の夏休みの事です。当時では一番費用が安かった日本から欧州ルートと申しますか、横浜港から船でソビエト(現ロシア)のナホトカ港へ渡り、シベリア鉄道でモスクワ経由欧州へ旅をしたのです。横浜から目的地のドイツミュンヘンまで到着するのに約2週間を要しました。
音大生である私はドイツの著名な歌劇場やら交響楽団を聴きたく旅をしたのですが、当時は情報も少なくまさか歌劇場やコンサートに夏休みがあるとは全く知りませんでした。お蔭で欧州の鉄道を使って色々な国々の旅もできましたので、今となれば青春時代の一生忘れる事のできない素晴らしい旅となりました。

◇ドイツ人青年「ヴォルフガング」との出会い
その旅の帰りの汽車である青年と出会う事になるのです。「ヴォルフガング」というドイツ人です。天才作曲家モーツアルトと同じ名前ですからすぐに覚えました。彼は典型的なドイツ人で当時流行のロングヘアーで口元も顎も無精髭、しかし笑顔は素晴らしい男でした。
当時彼は20歳、私は19歳でした。若かったですね~。彼は横浜港まで私と一緒でしたから、すっかり仲良くなり、最初の日本の宿は私の家という事になりました。
その後大学を卒業し、就職していたNHK東京放送合唱団を一年足らずで辞めて、私がドイツへ音楽留学する事になるのですが、ヴォルフガングとその家族には本当にお世話になりました。彼と出会ってから50年近くなる現在でもまるで家族のように親交は続いています。彼とその家族の応援無しに現在の私の仕事はなかったかもしれません。

◇音楽に挫折、ワインの道へ
音楽留学時代は正直挫折の連続でした。音大の声楽科を卒業して少しばかり歌が歌える程度で、本場欧州で活躍できると思った事が間違いの始まりでした。考えてみれば当たり前のことですが私が選んだオペラの道はそう甘くはありませんでした。元々私は横浜の酒屋の次男でしたから商人の血が流れているといいますか、日本酒の造り酒屋を先代に持つ叔父の意見で「才治(さいじ)君、折角ドイツへ留学しているのだから、音楽も良いけれど、肩の力を抜いて、ワインの勉強でもしてきたら?」と商人魂をくすぐるようなアドバイスもありました。音楽でとことん痛めつけられていた私にとっては渡りに船というか、意志が弱いといえばそれまでですが、ワインについて俄然興味を持ち始めるのです。